先月号の記事「『エビデンスがある』で止まったのでは見えないもの」で書いた「耳のじょくそうに保護剤」のエピソードには、半年以上に及ぶ長い経緯がありました。そして、その経緯の多くの時間を、私たち夫婦は「どうして分かってもらえないんだろう」という気持ちを抱えて過ごしました。
週末に帰省した娘を施設に送っていくたびに、最初はさりげなく「耳の傷がひどくなっているようなのでリンデロン軟膏を塗りました」と連絡ノートに書いてみました。そのうちに「耳の傷がずいぶんひどくなっているので、すみませんが様子を見てやっていただけませんか」などと書いてみたり、帰園時に詰め所で対応してくださる看護師さんに傷を見せて確認してもらい、相手により様々にお願いしてみたり。でも、「また悪化して帰ってくるのか」と気が気ではない親と、「治療はしているんだから、これ以上どうにもならないでしょ」という姿勢の看護師さんたちとの温度差が埋められません。一体どう言えば分かってもらえるんだろう、と夫婦で頭を悩ませ続けていた、ある週末のことでした。
例によって帰園して詰め所に寄ると、その日は年配の看護師さんでした。娘の幼児期にもおられた方です。余所に異動された期間を経て、しばらく前に戻ってこられたばかり。現場の最高齢だけあって、昔ながらの「おっかさん」タイプの看護師さん。いまどきの「デキる専門職」ナースの中に混じると、ちょっとレトロな雰囲気の方でした。
帰省中の様子を報告して熱を測ってもらい、連絡ノートを渡した後で、「あのぉ。しつこくて申し訳ないんですけど、耳のここのところが……」と、車イスの娘の髪の毛をちょっとかきあげると、覗き込むなり、
「ありゃ~、かわいそうに! こりゃぁ痛いねぇ」
私はつい涙ぐんでしまいました。もう何ヶ月もの間、帰省するたびにこうして同じ傷を看護師さんに見てもらってきたのに、「痛いねぇ」と、海本人の身になった言葉が返ってきたのは初めてだったのです。あぁ、やっと分かってもらえた……という気がしました。やっと親と同じ体温の人がいてくれた……と。
それまでに対応してくださった方々も、どなたも決して冷たくはありませんでした。それぞれにプロの医療職としてエビデンスに基づいた適切な対応をしようとしてくださっていたと思います。でも、医療専門職として「傷」に対処してくださる、その姿勢に、私たち夫婦はどうしても埋められない温度差を感じていたのでした。そして、それを埋められないまま「どうして分かってもらえないのだろう」とあの手この手で訴え続ける私たちは、ついには「ちゃんと治療してやっているのに、これ以上どうしろというのか、うるさい親だ」と「クレーマー」視されてしまいました。
でも、私たちの関心は「適切な治療がされているかどうか」ではなく、「この子の痛みをどうにかしてやってほしい」ということにあったのです。医療職の関心事は「傷」であり「それに対する治療」、私たち親の関心事は「海」であり「海が体験している痛み」でした。それが「温度差」の正体だったのでしょう。だから、その年配の看護師さんが初めて耳の傷を見た時に、「傷」よりも「傷ができて痛い思いをしている海さん」を関心事にしてくださったことが、私には涙ぐむほどに嬉しかったのだと思います。
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