地域医療ジャーナル ISSN 2434-2874

地域医療ジャーナル

2016年10月号 vol.2(10)

「医療は人を癒せるのか」再考

2016年09月23日 23:26 by spitzibara
2016年09月23日 23:26 by spitzibara

 今回の特集のテーマは、私自身が考え続けてきたことに近かったからでしょうか。予告されて以来なんとなく頭の片隅に住み着いて、特に意図したというわけではないのに7月、8月、9月と、私の記事はそのイチイチが医療と癒しの周辺で自分がこれまで考えてきたことを書いてみる、という趣のものになりました。記事を書く行為そのものが、自分の中で医療と癒しというテーマを改めて考えてみるプロセスとなったとも言えます(貴重な機会をいただいて、ありがとうございました)。

 そして9月号の記事を書いてみたら、早くも締めくくったみたいな格好となり、実は投稿作業を終えた後で「しまった!」と、ちょっと焦りました。「この原稿は来月の特集号まで取っておけばよかったのに。これでは特集本番の来月号に、私は一体なにを書こうというの……」と投稿後に、初めて気づき、途方に暮れてしまったのです。

 恥ずかしながら白状すると、「いったんアップしたのを取り下げて、来月のために取っておこうかなぁ」とセコイことが何度も頭をよぎりました。しかし、時は8月なかば――。7月26日に神奈川県相模原市の知的障害者の施設で重度重複障害者が多数殺傷される衝撃的な事件が起こったばかりでした。施設で暮らしていて、ターゲットにされた人たちに近い障害像の娘を持つ私は、大きな衝撃を受け、とても不安定な精神状態に陥っておりました。

 世界の安楽死や医師幇助自殺の実態をブログで追いかけて本まで書いた者として、容疑者の口から「安楽死」という言葉が飛び出した以上、ブログで自分なりに反応すべきでは……と、頭では考えないわけでもありません。でも、その肝心の頭がまったく役に立たないのです。26日の朝ニュースを知った瞬間に頭も心もフリーズし、語るべき言葉を失った状態からなかなか回復できません。 CMJ9月号の原稿は、これまで何年もかかって考えてきた蓄積の中から自ずと形を成してきたものが事件前から頭にあったおかげで書けましたが、新たに何かを書こうとすると頭がまったく役に立ちそうにありません。やむをえず、9月号はこのままでいくしかない、と腹を決めました。

 そして1ヵ月を経た現在――。頭はきしみながらでも、少しずつ機能を取り戻しつつあります。思わぬ原稿依頼があり、『現代思想』10月号(緊急特集=相模原障害者殺傷事件 9月26日発売)に「事件が『ついに』起こる前に『すでに』起こっていたこと」という論考を寄稿したことで、まず最初のカツが入りました。事件そのものを論じることはできていませんが、犯人の個別性に問題を帰して事件と距離を置こうとする人が少なくない中、そうばかり言えない世の中の動向があることを、事実を記述することによって示そうとしたもの。日本の多くの人は、そこに書かれた事実をほとんどご存じないと思います。よかったら読んでいただけると幸いです。

 事件について、さまざまな人がさまざまな立場と視点からさまざまなことを言います。事実関係が明らかになっていない中、誰もがこの事件にかこつけて日ごろから自分が言ってきたことを、いっそう声高に繰り返しているだけのように私には思えます。そして私もその一人なのだろうとも思います。

 事件後に、被害者のご両親がテレビで悲しみを語られた際、ネットでは「施設に厄介払いしていたくせに」「それほど大事な息子なら、家で自分がちゃんと面倒を見れば?」といった声がありました。それらは、私たち当事者と家族には「社会に迷惑をかけるな」というメッセージとして届きます。

 また、一方の障害者運動の周辺からは「施設否定論」が噴出し、「地域移行」を叫ぶ声がしきりに上がりました。「どんなに重度の障害者でも地域で暮らすことはできるし、そうすべきだ」と彼らは主張します。 でも「地域医療」に携わっておられる読者は感じておられると思いますが、重症重複障害児者では、特に医療的ケアを必要とする重症児を中心に、このところ「地域移行」は急速に進んでいます。ただし、そこで進んでいる「地域移行」とは、ありていにいって、ベッド不足に悩む病院や施設から「支援なき地域」へと「退院」と「移行」だけが「支援」され「推進」されて、介護負担が家族(多くの場合は母親)に背負わされる「地域生活」。

 統計で見ても、小児を受け入れてくれる訪問看護ステーションはまだ30%にも届きません。しかもそれらの多くは、支援ネットワークが整った限られた地域に集中していることを考えると、全国的レベルではほとんど存在しないのが実態でしょう。多くの在宅重症児の母親が、ことによっては数分おきの痰の吸引といった医療的ケアを含めて、過重な介護負担に十分な睡眠も休息もとれず、自身の健康を脅かされたまま、疲弊しています。

 それは、障害者運動が求め訴えてきた「地域移行」とは似て非なるものであり、「ノーマライゼーション」の名の下に高齢者の療養病床廃止と削減で起こったことが、重症児者でも始まりつつあるのでは、というのが私の懸念です。そんな中で事件を機に施設無用論が再燃し「地域移行」ばかりが声高に説かれるなら、それは病院や施設からの「追い出し」と同意の「地域移行」の推進に簡単に悪利用されてしまいかねない……。そんな焦燥が募るのですが、事件の後、入所施設の関係者や親はなにかと肩身が狭くなり、モノを言いにくい空気が広がっていくように思えました。

 NHKハートネットのブログのディレクターから取材依頼があったのは、このまま私たちにはモノを言い難い空気が濃くなっていくのか……と、気にかかり始めたところでした。今の段階で事件について語れと求められるのは、それ自体が恐ろしいことでしたが、その懸念があったので、えいっと、思いきってお受けしました。

 当日は話があちこちして、一番強調しようと思っていたことが言えないままになったり、「これだけは言うまい」と決めていたはずのことをいつのまにか力説していたり。そんなダメダメな自分に傷つき、疲れ果て、帰り道から、もうどこかへ姿をくらましてしまいたい絶望的な気分でしたが、ともかくもナニゴトかをしゃべりました。こちらもアップされていますので、よかったら、読んでやってください。

 ……てなことにかまけているうちに、1年のようにも1週間のようにも感じられる1ヶ月は過ぎ去り、CMJ10月号の記事を書かねばなりません。

 あの事件からしばらく距離を置き、上記のような体験を経めぐった後で改めて戻ってみると、「医療は人を癒せるのか」という同じテーマに対して、前とはまったく別の見方、感じ方をしている自分がいるから、人間っちゃ、ほんとうに面白い生き物です。人の心や頭にあるものは決して平板な単色ではなく、相反する思いや考えをいくつも包み込み、さまざまな色彩の交じり合ったグラデーションを描きながら常に移り変わっているものなのだなぁ、と改めて痛感します。

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