[はじめに]
開かれた医療とは何か。それは端的に言えば”多元主義的”な医療と言えるかもしれない。「開かれた医療」にとって、何が正しい医療で、何が誤っている医療なのか、そういった明確な医療なるものが「敵」と言える。明確性は多元性、つまり選択肢を奪う。曖昧だからこそ多種多様な価値観を受け入れる余地があるのだ。医療判断は常に不確実性の中にある。そこに絶対的な正しさなど、すべての経験から独立した認識として(つまりアプリオリに)存在しない。しかし、現代医療は明確なものを求めているし、正しい医療判断なるものが認識とは独立してどこかに存在するような信憑にとらわれている。
明確な医療、それは週刊誌に掲載されたいわゆる医療否定論や、あるいは診療ガイドラインに記載されていることこそが正しい医療とするようなガイドライン至上主義医療に端的に表れているような気がする。開かれた医療はそうした明確な医療とは対極にあるが、それは決してネガティブな価値を帯びているわけではない。むしろポジティブな様相を呈しているということを示したいのだ。
僕たち医療者は臨床判断をする際、医学的知見、薬学的知見というような客観知識に大きな影響を受けている。医療者が主観で臨床判断していたら、それは素人と変わらないだろう。また医療を受ける側からすれば、こんな病気かもしれない、というように、身体不条理から病名というような客観的知識を経由して、身体に対する不安を抱くだろう。どちらの立場にせよ、医療が人による営みである限り、客観的知識に大きな影響を受けることは間違えない。
そういった客観的知識はしばしば常識と呼ばれる。医療の常識、スタンダードな医療、そうした客観的知識に無批判でいると、僕たちは客観的知識に行動やふるまい、その全てを規定されてしまうだろう。そして一律に規定されたその先にあるのは明確な医療に他ならない。
開かれた医療は、客観的知識に常に反証し続ける。そうした批判的な態度が、医療の常識という懐疑不可能な信念を揺るがし、明確な医療という概念をむしろネガティブなものに陥れるであろうと考えている。
『人々を幸福にしようとする理想は、おそらく、最も危険な思想である(カール・R・ポパー 開かれた社会とその敵)』
人々を幸福にしようとする理想高き医療は、最も危険な医療かもしれない。本連載が暴こうとしているのはそうした事実である。
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