[変わりゆく小説のあり方]
小説というと、一般的にはどんなイメージがあるでしょうか。小説とはもちろん文学の一つの形式であるわけですけど、その内容としては随筆や評論、あるいは伝記、史書などの類とは大きく性質の異なるものです。かつて、小説といえば、純文学とか、より娯楽性を重視した大衆文学のようなものを文庫本なり単行本なり、紙の本でじっくり読む、そんなイメージが一般的だったかもしれません。しかしながら、小説に対するイメージは世代によってかなり変化してきているように思います。
特に、若い世代を中心に、小説は今やゲームやアニメーションと地続きのエンターテインメントとして捉えられているように思います。その読まれ方も、紙の本でじっくり読むスタイルから、スマートフォンなどで手の空いた時間に、まるでブログを読むようにウェブ上で楽しむスタイルへ変化しつつあります。少なくともインターネットの普及が小説の概念を大きく変えたことは確かでしょう。
[権威介在型モデルから消費者生成型モデルへの移行]
そんななか、出版や映像などを幅広く手掛ける株式会社KADOKAWA(旧角川グループホールディングス)と、国内最大級のブログサービス「はてなブログ」などを運営する株式会社はてなが、2016年に「カクヨム」という小説投稿サイトを立ち上げました。
カクヨムはウェブ上で小説を書き、読み、そして伝えられる場所ですが、このウェブサイトは新たな小説のあり方を鮮やかに提示しています。小説を書きたいと思う人は、誰でも小説を書き、その内容だけで、評価される。その評価が高ければ作家としてデビューすることもできる。つまり、「権威」が選ぶのではなく、読者の力によってデビューに導かれるというわけです。
カクヨムや小説家になろうなどの小説投稿サイトは、いうなれば権威介在型ではなく、消費者生成型(ユーザー発生型)のプラットフォームと言えるでしょう。もちろん、こうしたシステムにおける評価においても何らかのバイアス(特定のジャンルの小説のみが高評価をうける等)を排除することは難しいかもしれませんが、少なくとも"権威性”の介在は限りなく少ないように思われます。
インターネット環境の普及は、個人が権威に全く依存しない仕方で自分の創作活動を行い、評価を受けることができる、そんな時代を築き上げつつあるのです。このような時代の流れが文化的な価値を高めるかどうかは、その集団のインテリジェンスに委ねられるといえるかもしれませんが、現実的にこの流れを止めることは困難だと感じます。
実際、カクヨムのSF作品の中でも累計PVが100万をこえる、柞刈湯葉さんの「横浜駅SF」は、KADOKAWAより書籍として既に出版されていますし、小説家になろうに投稿された住野よるさんの「君の膵臓をたべたい」は書籍化のみならず、映像化までされました。
ブログメディアのみならず、YouTube[1]などの動画投稿サイト、note[2]やpixiv[3]など、テキストだけでなく音楽や絵画を投稿できるウェブサイト、またInstagram[4]などの写真投稿サイトなどは、それぞれの分野における権威性とは独立して、コンテンツの消費者(ユーザー)だけで評価される環境を作り出しています。音楽や映像作品などあらゆる領域において、コンテンツに対する価値付与の仕方は「権威介在型モデル」から「消費者生成型モデル」に移行しつつあるという事は事実でしょう。
では、こうした娯楽的なコンテンツではなく、学術的なコンテンツにおいてはどうでしょうか。本稿では、コンテンツへの価値付与における、権威介在モデルから消費者生成モデルへの移行という時勢の動きの中で、より自由な"学びのスタイル”とは何かを考察します。
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