私が「重症障害児者からの一方的な治療の引き上げの正当化論」として機能する「無益な治療」論の存在を初めて知ったのは、10年も前のことでした。米国テキサス州で1歳半の難病の男児からの生命維持中止をめぐって訴訟となったゴンザレス事件が2007年。カナダで、もともと身体障害があった高齢男性の呼吸器疾患で生命維持中止が問題となったゴラブチャック訴訟が2008年。
これら2つの事件の展開を英語圏のメディアは連日のように詳細に報じ、多くの学者もこれらの事件に際して頻繁に発言しました。
例えばウィスコンシン大学の小児科医で生命倫理学者であるノーマン・フォストは、シンポジウムや講演などでゴンザレス事件に触れながら、「質的無益」と「量的無益」は境界が曖昧であり、最終的にはその患者を救うためのコストを社会が認めるかどうかの判断だ、と主張していました。そして、それは専門職として個々の医師が判断することだ、医師は医療の素人である裁判所にお伺いなど立てず、堂々と自分で決断して治療を拒め、とゲキを飛ばしました。1)
ゴラブチャック事件では、著名な功利主義の哲学者ピーター・シンガーが地方紙に寄稿し、「本人の意思が確認できず、何が患者の最善の利益かを判断しにくい場合には、社会のコストを考えなければならない」、カナダのように公費で医療が賄われている場合には「納税者には市民仲間の宗教的心情を支えてやる義務はない」などと述べ、「医師らの判断が勝っているのだから裁判所は治療を継続させる命令を出すべきではない」と結論しました。その論考には、「頭も確かでなくなった高齢者に抗生物質を使って何の意味がある? 歩けない、しゃべれない、自分で食べられない、我が子も分からないようになってまで生きていたい人がどれくらいいるだろうか」という一節もありました2)
私はこのような「コスト論としての無益論」とでも呼べそうな彼らの主張について、拙著『死の自己決定権のゆくえ―尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(大月書店 2013)の中で、以下のように考察しています。
もう一つの疑問は、シンガーもフォストも社会や納税者が決めることだといいながら、同時に専門家である医師に決めさせろと主張することだ。それは、医師に社会や納税者の代表として判断をしろということなのだろうか。しかし特定の患者の特定の治療をめぐる専門職としての医師の判断とは、納税者や社会の判断と常に相容れるものなのか。「無益な治療」論では、医師の判断よりも患者や家族の意向が優先されることは専門性への侵害だと主張されるが、こうしたコスト削減の要請を背負った社会や納税者の代表たれと求められることもまた、医師にとって同じく専門性への侵害ではないのだろうか。
いったい、ここで議論されているのは「特定の治療が患者本人にとって無益かどうか」という個々の医学的判断なのか、「患者本人の利益にならない医療はコストの無駄だからやめるべきだ」という不適切なコストをめぐる医療財政問題なのか、それとも「仮に患者本人の利益になるとしても、一定の障害像の人への医療コストを社会は認めない」と、医療費削減の為に重症障害児者の医療を切り捨てようとする"人間の選別”の問題なのか。それぞれは別個の問題でありながら、それらがぐずぐずのまま議論がくり返されるたびに、「死の自己決定権」議論でもそうだったように、「無益な治療」議論で問題になる障害像も少しずつ拡大していくように思われてならない。(『死の自己決定権のゆくえ』p. 91-92)
前の記事「『無益な治療』論再考1」で紹介したように、2015年のポリシー・ステートメントによって「医学的無益」が最も狭義な「生理学的無益」として定義され、ようやく「無益」概念がQOLから切り離されたのかもしれません。医療倫理の問題として、そこが切り離されるために10年以上がかかったのかと、ちょっと茫漠とした気持ちになります。
同時に、この10年以上なにもかもグズグズのまま続いてきた議論によって、また一方で加熱しつつ同時進行してきた「死ぬ権利」議論との相互作用によっても、一般社会にも医療現場にも「重い障害のためにQOLが低い生は生きるに値しない。したがって医療コストにも値しない」という価値観は、もう取り返しがつかないほどに広がってしまったのではないか、という懸念が私にはあります。
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