今年は2月号、5月号と「無益な治療」論を取り上げてきました。日本の終末期医療をめぐる問題は、多くの人が海外の安楽死や医師幇助自殺など「死ぬ権利」という議論の文脈で論じていますが、私はむしろ、それは「無益な治療」論の文脈に沿って「医療をめぐる意思決定のあり方」の問題と捉えて議論すべきことだろうと考えています。
そこで今月号では、「無益な心肺蘇生」をめぐる興味深い事例を紹介し、考えてみたいと思います。5月号の記事で紹介した生命倫理学者(小児科医)のロバート・トゥルーグが2010年2月にNew England Journal of Medicine(NEJM)誌の論考 ”Is it Always Wrong to Perform Futile CPR?(無益な心配蘇生を行うことは常に間違いなのか?)” で論じて大きな批判を浴びた事例です。概要としては、両親がとにかく手を尽くしてほしいと強硬に求めていたので、もう死んでいると医療職の誰もが感じている2歳児に15分間の心肺蘇生を行った、というもの。
私はこの事例についてNEJMの論考が出た直後にニューヨークタイムズの記事で知り、その後、2011年11月にトゥルーグが行った ”Medical Futility: When is Enough Enough?(医学的無益性:どこまでやればenough(もう十分)なのか?)”という講演 をボストン子ども病院HPのアーカイブで聴いて、さらに詳細を知りました。折に触れて思い出し、考え続けてきた事例ですが、元の論考は読んでいなかったので、このたび記事を書くに当たって、CMJ編集長のbycometさんにお願いして、NEJMの論考とCorrespondenceまで手に入れていただきました(bycometさん、ありがとうございました)。
まず、2010年2月のNEJMの論考から事例を紹介してみます。
2歳の先天性脳ヘルニアの男児。脳ヘルニアは重症で、手術後も神経障害が重く、将来的にもなんら意味のある神経発達はないだろうと両親には告げられていた。医療スタッフは何度も説明を繰り返しては、本人の安楽を第一とする緩和的な治療への方針転換を勧めてきたが、両親は頑として受け入れようとしなかった。DNAR(蘇生無用指示)にも同意せず、とにかくできることはすべて手を尽くしてほしいと望み続けた。
そのため、心停止が起きてコードブルーで駆けつけた時、トゥルーグはこの子はもう死んでいると直感しながらも、スタッフの誰から見ても無益でしかない心肺蘇生を命じた。もちろん、助けることはできず、15分後に中止を指示。関わったスタッフはみんな気持ちが重く、居合わせた看護師の一人は吐き気がするほどだったと後でトゥルーグに訴えた。
病院に駆けつけてきている両親に説明に向かうトゥルーグは、救命できなかったことをさぞ責め立てられだろうと覚悟して行ったが、小さな亡骸を抱いた両親は思いがけず穏やかだった。トゥルーグを見ると、父親は息子のシャツを開いて、心肺蘇生による痣や傷だらけの胸を見せ、率直な感謝の言葉を述べた。 「お礼を言います。これを見れば、本気で助けようとしてくれたことが分かる。さっさと諦めてこの子を死なせたわけじゃないと分かります」
それを聞いた時にトゥルーグは、自分たちは正しいことをしたのだ、と感じたというのです。
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