僕たちはただ生活をしているだけで、何らかの情報と関わりをもっています。テレビを付ければ、そこには今日の天気に関する情報が、スマートフォンでブラウザを立ち上げれば、世界中の出来事に関するニュース情報が、ツイッターなどのSNSにログインすれば、関心を引かれるものから、どうでもいいような情報まで、様々な情報に満ちていることでしょう。
情報に囲まれた社会を生きる僕たちは、既に意志や主体性という概念を失いかけているのかもしれません。意志や主体性という概念は人の側にあるのではなく、むしろ情報の内にある、僕はそんな風に考えています。そしてこれが、いわゆる情報社会の核心ではないかとさえ思うのです。僕たちの振る舞いは情報を踏まえた能動的な意志決定にあるわけではなくて、情報によりつき動かされた情動によって振る舞いを規定されている。つまり、意思決定にはある種の受動性が宿っていると言うことです。情報社会とはよく聞く言葉ですが、その実体は情動社会といった方が妙を得ているように思います。
少し想像してみてください。窓の外はどんよりした灰色の空ですが、まだ雨は降っていないようです。そんな平日の朝に、あなたはテレビをつけます。映し出された天気予報によれば今日の降水確率は50%と表示されています。あなたは出勤時に傘を持って家を出るでしょうか。それとも傘を持たずに家を出るでしょうか。あるいは、降水確率が何%であったら、あなたは確実に傘を持って家を出るでしょうか。
例えば、朝は雨が降っていないけれど、今日の降水確率が100%だったら、多くの人が傘を持って家を出ると思います。この“傘を持つ”という振る舞いは、一見すると自分の意志で能動的に判断したかのように見えます。しかし、本当にそうなのでしょうか。天気予報など見なかったら、あなたはどう行動したでしょうか。むしろ、天気予報によって“傘を持たされている”傾向があるとはいえないでしょうか。よくよく考えてみると、この場合の意思決定は能動的でも受動的でもない何かです。情報により突き動かされた情動に基づく判断であって、あえて言語化するのならば情動的意思決定ともいうべきものかもしれません。
こうした意思決定は身近にあふれています。テレビやインターネットの宣伝広告と、それを見た消費者のふるまいの関係と構造上は同じです。同じ性能と価格の2つ電化製品があったとして、あなたはどちらの製品を購入するのでしょうか。テレビやインターネットの宣伝広告に掲載されていた商品を購入する可能性は極めて高いように思います。この選択において、純粋な能動性は失われているということです。
今、僕はこのような情動的意思決定という視点を、臨床をめぐる価値判断や意思決定に重ねたいと考えています。本項では、臨床における意思決定が必ずしも能動性を帯びていないという仮説を検証したうえで、情動社会における情報との向き合い方について論じてみたいと思います。
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