今回の特集に何を書こうかなぁ……と考えていた数日前、個人的な知り合いの医師とメールでやりとりしていたら「どういうインフォームド・コンセントをするべきなのかについて」というフレーズが目に入りました。とても尊敬している医師なので、思わずパソコンの前で「ありゃぁぁ。まさか先生も、ですかぁぁぁ……」と、叫んでしまいました。
日本の医療職には「インフォームド・コンセント(を)する」と言われる方がとても多いように思います。もしかしたら、ほとんどの方がこれを当たり前と思い込んでおられるのでは、というのが私の印象なのですが、読者の皆さんの周りではどうでしょうか?
もちろん私は患者や家族の立場なので、エラソーに「それは誤用です」と訂正のツッコミを入れられるわけはなく、たいていは「ありゃぁぁ……」と心の中で呟いて終わります。そして、そのたびに私のブログにこの10数年間に何度か現役の医師から入った「医学部の教育では医療倫理も生命倫理もほとんど皆無に等しいのですよ、とほほ……」という嘆きのコメントを思い返します。
Informed Consent(IC)とは、inform(情報を提供)された上でのconsent(同意)ですから、インフォームする側の医師が「コンセント(同意)する」というのは、まず文法的にヘンですよね。語義から言って、ICとは患者が医師に対してgiveする(与える・出す)ものです。医師の立場から言うなら、せいぜい「ICをとる」というのが文法的に正しい用法ではないでしょうか。
文法的に誤っているだけでなく、医療倫理の観点から言っても、「医師がICする」はかなりアウトな誤用ではないかと思います。ICのココロとは、患者の権利擁護であり、医療を受ける主体として患者を尊重する姿勢だからです。そのICを医師が「するもの」にして主体を握りこんでしまったのでは、換骨奪胎の「なんちゃってIC」あるいは「なんのこっちゃらIC」になってしまいます。
……と、つい。ただの素人が、いきなりエラソーな講釈で記事を始めてしまいました。すんません。
私は医療倫理の専門職どころか何の専門家でもない、素人のくせにデカい口をたたくバアサンにすぎないので、あまり無責任なホラを吹かないよう、ここから先は(ちょいと手前味噌になりますが)アリシア・ウーレットの『生命倫理学と障害学の対話~障害者を排除しない生命倫理へ』(生活書院 2014 安藤泰至・児玉真美訳)を参照しつつ、拙ブログで拾った情報などを追加する形で、以下にICという概念が形成されるに至ったいきさつを、ざっと拾ってみたいと思います。もしかしたら、読者の皆さんにはとっくにご存知のことばかりかもしれませんが。
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