ネット上の医療・健康に関する情報に対して、その文章表現に対する論理的整合性という観点、つまりは “国語力” で情報内容の良し悪しを考えてみようというこの連載、今回が最終回です。
端的に言えば、情報は表現の一種です。程度の差はあれ、情報を作成した人の関心や意図が入り込んでおり、“完全な真実”との乖離が存在しています。それは偶然によるものであったり、バイアスと呼ばれる先入観、偏見によるものだったりしますが、情報化するということは、意図的であれ、非意図的であれ、事実そのものについてではなく、解釈によって歪んだ世界の記述であるということに注意が必要です。事実を共有する唯一の手段が言葉とその理解にあるのだとしたら、“完全な真実”と“情報”が示しているもとの間にはグレーゾーンが広がっていて、両者を厳密に接合することは困難だと言えましょう。
臨床医学において、もっとも真実に近いと考えられる一次情報、すなわち原著論文でさえ、真実との乖離が見られます【1】。だからこそ、情報を鵜呑みにしない、という姿勢が肝要なのだと思います。 本連載、第2回の『事実と意見、議論の前提』でもご紹介しましたが、議論の「前提」が、「事実」によって導出されていない場合、その「前提」をあらためて議論の俎上に載せることが肝要です。前提を疑い、自分なりに問いを立てること、その問いに答えようとすることによって情報の読解がより能動的になっていきます。
情報読解に関して、今年ノーベル医学・生理学賞を受賞した京大名誉教授の本庶佑先生が、記者会見述べられていた内容はとても印象的でした【2】。
よくマスコミの人は「ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ」という話をされるけども、僕はいつも「ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割だ」と言っていますし、大体そうだと思っています。まず、論文とか書いてあることを信じない。自分の目で確信ができるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的なやり方。つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやるということです。
研究者になるにあたって大事なのは「知りたい」と思うこと、「不思議だな」と思う心を大切にすること、教科書に書いてあることを信じないこと、常に疑いを持って「本当はどうなっているのだろう」と。自分の目で、ものを見る。そして納得する。そこまで諦めない。
natureやscienceというのは世界的にも有名な科学誌です。こうした学術専門誌に掲載されている情報の9割が嘘というのは、やや誤解を招きそうな表現ですけど、“10年たったら残って1割”、とおっしゃられているように、この発言は情報の更新可能性に関するものです。学術専門誌と言えど、掲載されている情報には偶然やバイアスの影響で少なからず歪みがあります。それに加えて大事なことは、そもそも科学的真理と僕らが考えているものは、常に暫定的真理である、という事です。
僕の大好きな哲学者、カール・ライムント・ポパー(1902~1994年)は “客観的知識―進化論的アプローチ” という本の中で『われわれは真理の追求者であるが、真理の所有者ではないのだ』と述べています。科学的に考えるとは、推測とそれを反駁しようとする巧妙で厳しい試みの方法である、というポパーの反証主義は、医療・健康情報を読み解く態度においても大切なことだと思います。そして、本庶先生も記者会見で述べておられるように “常に疑いを持って「本当はどうなっているのだろう」と” 問いを立てる力、この力こそ国語力の真髄ではないかと思うのです。
前置きが長くなりましたが、医療情報を読み解くための国語ゼミ、最終回は、情報読解における『問の立て方』についてご紹介したいと思います。
【1】例えば、研究不正が明らかとなったディオバン®の臨床試験論文等. Lancet. 2007 Apr 28;369(9571):1431-1439. PMID: 17467513
【2】「ネイチャー誌、サイエンス誌の9割は嘘」 ノーベル賞の本庶佑氏は説く、常識を疑う大切さを。 https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/honjo-kyoto?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharetwitter&utm_term=.eyYxzqp6y
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