「無益な治療」論について、これまで何度も取り上げて考えてきましたが、今月は、2017年2月号の記事で少し触れた「インテグリティ」の問題を考えてみたいと思います。
「インテグリティ」は日本語に訳すことが難しい概念ですが、アリシア・ウーレットの『生命倫理学と障害学の対話』では、「職務完結性」と訳しています。
「無益な治療」をめぐる議論では、効果もないのに本人を苦しめるだけの治療を続けなければならない状況は医療専門職に道徳的苦痛を与え、そのインテグリティを傷つける、と言われることがあります。一方、裁判所の判断や患者と家族の意向が医師と異なる事例で、治療の無益性を判断する医師の決定権を守れなければ医師としてのインテグリティが損なわれる、と主張されることもあります。専門性を根拠に「医師の決定権」を主張しつつ「無益な治療」論の立場に立つ一部の医師たちにとっては、「医師の決定権」とは「医師としてのインテグリティ」とほとんど同意なのかもしれません。
私は、このように個別の患者の医療をめぐる意思決定が「医師のインテグリティを守られるか」という文脈で議論されることには、大きな危うさを覚えてきました。
一つは、「患者の自己決定権」対「専門職としてのインテグリティとしての決定権」という見えやすい対立構造のみが描かれて、一方で「コスト削減の要請を背負った社会や納税者の代表たれと求められること」もまた医師にとってはインテグリティの侵害であるはずだ、という対立構造は見えにくくなってしまうからです。 弱い者に対して権威や権力のある強い者の側に立つことの中に「専門職としてのインテグリティ」を見出すことに比べれば、強大な権力に利用されず屈しないことの中に「専門職としてのインテグリティ」を見出すことのほうが圧倒的に難しいのが、人間の性というものではないでしょうか。歴史においても、各国での強制不妊手術による優生施策キャンペーン、ナチスの障害者とユダヤ人虐殺、近いところではグアンタナモ捕虜収容所での拷問への協力など、政治権力による人権侵害に医療専門職が利用され、結果的に加担した事例は多数あります。
また、もう一つ、その姿勢は必要以上に患者サイドとの対立構造を描き出し、固有の患者の最善の利益を見出していくためのコミュニケーションを阻害しかねないという危惧があるからです。
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