地域医療ジャーナル ISSN 2434-2874

地域医療ジャーナル

2019年04月号 vol.5(4)

シンポジウム「障害者家族のノーマライゼーションを考える」で「老いていく親として思うこと」と題して講演しました

2019年03月15日 23:47 by spitzibara

 さる3月3日、一般社団法人日本ケアラー連盟は名古屋でシンポジウム「障害者家族のノーマライゼーションを考える」を開催しました。障害児者の医療と福祉に携わる専門職や家族がたくさん来てくださって、3つの講演とトークセッションの間に行われたサックスとピアノのミニコンサートも大好評でした。

 シンポでは3つの講演が行われました。まず日本福祉大学教授で日本ケアラー連盟理事でもある湯原悦子さんによる「追い詰められた親が引き起こした殺人事件」。介護虐待と介護殺人のデータから、親が子を殺害する事件で加害者となるのは父親よりも母親が多いなど分析。続いて、80代の母親が寝たきりの60代の娘を殺害した痛ましい事例の詳細が紹介され、未然に防ぐことができるための課題が提言されました。

 次に、佛教大学社会福祉学部社会福祉学科准教授の田中智子さんによる講演「親たちはどのように生きているのか?」。障害者の家族、とりわけ母親にはケア役割の専従化によって経済的な貧困の他にも、関係的な貧困(夫婦間の立場の弱さ)が起こり、それが二次的依存(誰かのケアを引き受ける人がそのために自分も社会資源に頼らざるを得なくなること)につながる実態を指摘。障害者のノーマライゼーションだけではなく、障害者と家族のノーマライゼーションを追求する必要が語られました。親にも“老いる権利”がある、という言葉が印象的でした。

 3つ目の講演は、私、spitzibaraこと児玉真美が「老いていく親として思うこと」として講演しました。今月は、その内容を――。

 こんにちは。日本ケアラー連盟で理事をしております、児玉です。

 今日は「老いていく親として思うこと」というタイトルでお話しさせていただくわけですが、うちの娘は6歳の時から入所施設で生活しているので、在宅の親御さんたちからすれば、なんて生ぬるいことを言っているんだろう、と思われるような内容が多くなるかと思います。とにかく誰かが口火を切らないと、という思いで、やってきました。

 私たち母親は長い間、自分で主張できない子どもに成り代わって、あるいは我が子のために、さまざまな方面に向かって声を上げてきました。その結果、子どものために語ることなら得意だけど、いざ自分自身のために何事かを語ろうとすると躊躇してしまうところがあります。

 また周囲からも、母親が自分自身のことを語り主張すると、どうしても反発がやってきます。先月26日に広島でケアラー支援講演会を開いたのですが、そのポスターを見た、あるお医者さんが言われたことがとても象徴的でした。「ケアラー支援ってのは、お母さんたちに支援が入れば子どもたちのためになる、という主張なんでしょ」。いや先生、そこに話を持っていかれるから、私たち母親は自分がしんどい時にしんどいと言えなくなるんです、先生のような人がいるから私たちは講演会をしなければならんのです、とお返事した(笑)のですが、「お母さんなら、いつだってどんな時だって我が子が第一だよね、我が身のことなんか後回しにするもんだよね」という社会からの暗黙のメッセージが、先ほどの湯原先生、田中先生の講演に出てきた事例の母親たちから助けを求める声を奪ってきたと思うんですね。そういう状況に対して、ささやかな揺さぶりをかけてみたい。そんな思いでお話しさせてもらおうと思います。よろしくお願いします。

 娘は海といいます。寝たきり全介助で、言葉もイエスの意味の「ハ」しか持ちませんが、音声やとてつもなく能弁な目つき顔つきを駆使して自己主張は驚くほどきっぱりとします。言葉はなくても、ご覧のとおりの顔つきで親も専門職も手玉にとりながら世の中を渡ってきた30のオバサンの風格みたいなものまで、最近は漂うようになりました。

 ただ、今はこうして元気に暮らしている娘ですが、生まれた時はひどい仮死状態で、生まれてすぐに人工呼吸器をつけて保育器に入りました。1ヶ月くらいの間に「予断を許さない状態です」という言葉を何度聞いたか分かりません。

 そんなふうに、我が子が生まれるなり死にかけているという、思いもよらない事態が目の前に立ちあらわれたわけですから、私は日々刻刻それに対処するのが精いっぱい。わけもわからずジタバタ右往左往し続けて、ある日ふと気が付いたら、いつのまにか障害のある子どもの親になっていた……という感じ。まるで電車の乗り継ぎでも間違ったみたいにあっけなく、いつのまにか自分の人生が、それまでとはまるで違うものに変ってしまった……。それほどの人生の劇変でした。

 なにしろ、障害のある子どもの親になったとたんに、日々の生活がめちゃくちゃしんどいものになった。うちの子は眠らない赤ん坊でした。夜通し続く異常な号泣に耐えながら、なんとかしようと夫婦で四苦八苦している間に朝が来る。ほとんど眠れないまま仕事に行く。けいれんだと分かって治療で収まると、今度は言語道断なほどの虚弱との格闘がやってきた。三日と続けて元気が続かない。しかも急変するから気が抜けない。毎日が緊急事態の連続という生活。

 それから障害のある子どもの親になったとたんに、世間からの扱われ方がゴロっと変わりました。専門家からは上から目線でああしなさい、こうしてはいけませんよと指導されるばっかりだし、世間の人たちまで、お母さんが弱音を吐いてどうするの、お母さんが頑張って海ちゃんを歩かせるのよ。当時の私は31歳で、大学の専任講師をしていて、若輩ながら一人前の社会人だったのに、障害のある子どもの親になったとたんに、専門家からも世間の人からも何も知らない何もできない子どもみたいな扱いを受ける。

 それだけじゃなくて、いつも誰彼に頭を下げている。娘が入院すると職場にも学生さんにも何かと迷惑をかけるので、大学に行くと、会う人会う人に頭を下げて謝っている、病院に戻るとおばあちゃんに謝り、海に謝り、お医者さん看護師さんにご迷惑をおかけします、謝り、と毎日毎日すみません、ありがとうございます、お世話かけます、ごめんなさい、と言い暮らしている。私自身も心身とも疲れて、しょっちゅう高い熱を出していたり、体調いつも悪いのですが、もう私の体調を気遣ってくれる人はどこにもいない。 私はもう娘の「療育機能」や「介護役割」そのものになってしまって、もう一人の人としては誰も目にも見えなくなってしまった。そんな気がしました。

 仕事との両立にあんまり苦労するので、市役所に電話で相談してみたことがあったのですが、「助けてもらえるところはないでしょうか」と相談したら「その子どもさんのお母さんはどうしているんですか?」。「私が母親なんですけど」と答えると、「普通は子供に障害があったらみんなお母さんが面倒を見ておられますよ」と返された。

 障害のある子どもは母親が面倒を見るのが当たり前、という社会通念は根深かったです。障害のない子どもなら子育てをしながら働くための支援はいろいろ制度が整っているのに、子どもに障害があると、医療も福祉も、母親が働かずに面倒を見るものとして制度が成り立っていました。結局、私は娘が2歳の時に離職せざるをえませんでした。

 これについては、なぜ障害のある子どもの母親は自分の人生を生きられないんだろう、という慙愧の念が長く続きましたが、最近、改めて釈然としない思いになっているのが年金。私には職業もあったし私自身は働きたかったのに、社会の仕組みがそれを許してくれなかった。それなのに62歳になって自分の年金の額に、え? これっぽっちなの? と愕然としている。なんか、もう塩でも舐めて生きてけ、みたいな額なんですよ(笑) これは介護離職に潜んでいる大きな問題だな、と改めて思っています。

 娘の幼児期に世間の人たちからよく言われたのが、「海ちゃんのためにお母さんは長生きしてあげなさいよ」という言葉でした。もちろん、私自身の中に、この子のために長く生きてやりたいという思いは素朴な願いとしてあります。でも、はたから求められることは違う。じゃあ「はい、私はこの子のために長生きしてやります」と決心したら、それで実現できるような類のことなんですか? そんなの誰にもコントロール出来ることじゃないのに? そんなひねくれたことを、おなかの中で呟いていました。

 2008年に、福岡で線維筋痛症の持病を持った母親が発達障害の息子を殺害するという事件があったのですが、忘れられないのが、その時にネットに書き込まれたコメントの一つ。「いやしくも母親なら息子の介護くらい血反吐を吐いてでもやりおおせて見せろ」。血反吐ですよ。今どきまだこんなことを言う人がいるのか、と思いましたが、こんなふうに、「お母さんなんだから、いつだってどんな時だって我が子が第一で、我が身のことなんか後回しにするよね、母の愛さえあれば、どんな不可能だって可能にできるよね」という社会からの暗黙のメッセージというのは、常にさまざまな形で私たちに向けて届けられていたと思います。

 当時の母親仲間との忘れられない出来事があります。子どもの入院で何度も一緒になるうちに仲良くなった人。ある時の入院で長い廊下で一緒になって、その人も夜ごとの号泣に苦しんだという話になり、あれは辛かったよねぇという話をしながらエレベーターに乗ったんですね。私はぽんぽんモノを言うので、「あの時だけは、もう窓から投げ捨てたろかと思うたわ」みたいなことを言いながらエレベーターを先に降りた。ところが後から来るはずの彼女がこない。あれ、と思って振り返ったら、エレベーターの奥でじっとうつむいている。なんかあったのかと思って戻ってみたら、泣いている。ぽつんと言ったのが「児玉さんでもそうなんじゃね……」。

 最初なんのことかわからなかったんですけど、「私、そんなひどいことを考えるのは自分だけなんかと思うとった。それで、誰にも言えずに、ずっと自分は鬼みたいな親じゃ、母親のくせに、と自分を責めとった、でも私だけじゃなかったんじゃね」。そう言って泣いていた、その人の姿が今も忘れられません。

 どんなに深い愛情があっても、どんなに凄絶な努力をしても、生身の人間にできること、耐えられることには限界がある。介護にはどうしてもそういう面があると思うですけど、つらいと感じることそのものを、母親は自責してしまう。そんなふうに自分を責めてしまうと、本当は「もういやだ、助けて!」と今にも叫びだしそうになっているのに、その悲鳴を自分で無理やりに封じ込めて、さらに頑張り続けるしかないところへと自分を追い詰めていく。

 一方では、そんな思いを抱えながら、それでも私たちはそれぞれに障害のある子どもの親として成長していきました。子どもを連れてあちこちに通いながら知識を身に着け、仲間と出会い繋がって、そのころ一番強く願っていたのは、自分が頑張ればって、なんとか障害を軽くしてやれるんじゃないか、自分が頑張って少しでも豊かな生活を送らせてやりたい、ということでした。それを思って、みんなそれぞれに奮闘してきました。

 そうしてがむしゃらに生きているうちに、いつのまにか時が経ち、私たち親はいま老いてきました。

 子どもも障害のために老いと衰えが普通の人よりも早いんですけど、私たち親にも同じことが言えるんだろうと思います。私は30代から更年期の症状が出ていたし、あちこちの不調で病院に行っては、そのたびに「あんたは起こっていることが人より10年早い」と言われていました。これは、どの親も、子どもが生まれてから自分の身体をものすごく酷使してきているということだと思います。最近は、なんであれ治りきらないまま日常的に飲む薬が追加されていく。朝どこかしらの身体の痛みとともに目覚める、ということが増えてきました。

 実際、親には「もうしてやれないこと」が一つずつ増えていきます。本人も親も体力が落ちて、前は年に1,2度行っていた泊りがけの旅行はもうできないし、日帰りの遠出ももう難しい。

 最近、家に連れて帰った時のお風呂もついに諦めました。これは苦渋の決断でした。療育園では週3回お風呂に入れてもらっているので、その隙間で帰省すれば別にお風呂に入れなくなるわけじゃない。でも、家に帰った時のお風呂って、ただ身体を洗うことでもなければ入浴介助でもない。家族の親密な時間だったんですね。

 10数年前にリビングからお風呂まで抱えるのが難しくなり、貯金をはたいてリビングに隣接したお風呂を作った。ショールームに行って、顰蹙を買いながらも海を抱いて3人で片っ端から浴槽の中に座ってみました。そうして、なんとか夫婦で抱えて入れる大きさと予算ギリギリを探して設置した。そのお風呂に親子3人でのんびり風呂に浸かってぼんやりしていたり、たわいない話をしていたり、海が気が付いたら眠りこけていたり、という時間は、他の何物にも代えがたい家族の時間でした。それを手放すことは苦渋だった。でも、海にも親にも取り返しのつかない事故が起こらないために、いつか決断しなければならないことでした。

 まだなんとか健康でいられる私たち夫婦にとって、いま感じる老いの一番の痛みは、こうして「してやれないこと」が一つずつ追加されていくことの寂しさ、悔しさのように思います。

 親亡き後の議論では必ず「親役割」という言葉がでてきますが、親と子の間を繋いでいるのは決して親役割や介護関係ではなくて、固有の人と固有の親の間にある、かけがえのない関係性だと思うんですね。これから自分が老いていくことを考えた時に、私が一番恐ろしいのは、親の側にひとたび何かが起こったら、会うことすらできなくなる親子だということです。「してやれないこと」が一つずつ増えていけば、最後は親として傍にいてやることだけになるなぁ、と思うんですけど、親が何らかの事情の動けなくなれば、その「傍にいてやること」すらできなくなって、親と子の関係そのものが断ち切られてしまう。

 療育園でも、盆暮れに帰省できない人が増えてきています。親たちが、自分の親の介護、どうかすると配偶者の介護に追われる時期が来ている。入所では、これは我が子に会いに行ってやれない悩ましさになります。在宅の場合には、我が子とダブル・トリプルの介護になっているということです。私も数年前に父、兄、母を相次いで亡くしたのですが、その間に海も酸素マスクをつける事態となって、入所でも大変な生活でした。在宅だと、どんなに負担の大きな、綱渡りのような生活だろう、と思います。

 自分自身が大病をして、その闘病のために面会に来れなくなった家族も増えています。認知症が進んでもう孫に会いに来ることができなくなったおばあちゃんが、二時間おきに療育園に電話をかけてこられる。対応する側も大変だけど、そのおばあちゃんの胸の内を思うと、辛くてならない。

 そんなことを考えていて、私は最近、親亡き後という言葉をあまり素直に受け取れなくなってきました。なんだか「親亡き後」というのが「ピンピンコロリ」と同じように思えてきたんです。

 たとえば2017年にどこかの自治体が親亡き後問題の相談窓口を作ったというニュースの一節に「在宅生活を支えてきた親が亡くなった後、障害者をどうサポートするのか」と書いてあります。この記事だけではなくて、親亡き後問題についてはだいたいこういう捉え方がされていることが普通なんですけど、これ、すごく変だと思うんですよ。

 在宅生活を支えている期間の次に、いきなり親はばたっと死ぬことになっている。親が介護できている時期が「親亡き後」にいきなり接続されている。本当はこの二つの時期の間には、親が老いて在宅生活を支えられなくなる期間というものがあるはずなのに。まるで、そんな期間は存在しないかのように、あるいは存在してはならないかのように、こんなことが言われている。

 ピンピン暮らしている時期の次に、たいていの人の場合はヨレヨレとくたびれて行く時期があると思うんです。病んで不自由になったり寝たきりになることもある。それが生身の人間というものなのに、まるでそんな期間は存在してはならないかのように、ピンピンとコロリが接続されて喧伝されていく。

 私たちの世代の親にとっては、ピンピン我が子の介護を担えていた時間はもうとっくに終わっていて、私たちはこれから「親亡き後」までの長い時間を、まだまだ老い、病み、衰えながら生きていかなければならないのに、そんな期間はどこにも存在しないかのように、「親亡き後」だけが論じられていて、その間の老いを私たち親がどのように体験しているのか、これからその老いをどのように生きていくのか、ということには誰も目を向けてくれようとしない。

 先ほど、障害のある子どもの親になったとたんに世の中からの扱われ方が変わったという体験をお話ししましたが、あの頃から30年が経ち、この歳になった私たちがいま体験していることって、あの頃と同じなのかもしれない、と思えてきます。私たちは今もまだ「親役割」とか「介護機能」にされたままで、ふつうに老い病む一人の人としては誰の目にも見えないままなんじゃないでしょうか。

 私は、かつて大学のフルタイムの仕事を辞めてから後、翻訳やフリーライターの仕事をするようになりました。その中で出会ったのが、英語圏のケアラー支援。2008年のことでした。もうびっくりして、夢中でインターネットで情報を追いかけました。なかなか口にできない私自身の思いが、そこではそのまま鮮烈な言葉になっていたからです。

 例えば英国では毎年6月に介護者週間が行われるのですが、2008年のキャンペーンの名前は“Back Me Up”。(介護を受けている人だけではなく)介護している私のこともちゃんと支えて――。オーストラリアの介護者週間は10月なのですが、2008年のメッセージには、じんときました。Remember, you are only human. 雑誌の連載では「忘れないで、あなただって生身の人間なのだから」と訳してみました。 びっくりしたのは、英国では1995年の早くに、すでに介護者法ができていたこと。ケアラーを一人の個人として認めることの必要性が法律にきちんと謳われていた。へぇぇ、こんな国があったんだ、と思いました。

 法的な根拠があるということは、国家戦略が打ち出されていくということです。こうした国家戦略や、その後の法整備によって、ケアラー個人の権利保障という視点はより明確に打ち出されてきました。2014年のケア法では、ケアラーにも介護されている人と同等の権利が認められました。

 日本でも介護者を支援する必要は少しずつ言われるようになっていますが、根本的に考え方の枠組みが違う、と思います。 日本では、まだ介護者として機能し続けられるように支援してあげましょう、という姿勢が主流です。介護しやすいように、介護を担い続けられるように、支援を、と。

 でも、本来の支援とは、介護している人が自分自身の生活や人生を、継続性を失わずに生きられるための支援なんだ、支援のパラダムシフトなんだ、と私は英語圏のケアラー支援と出会って初めて教えられました。

 私たち重い障害のある子どもを持つ母親は、「しんどい」ということを口に出せずに、むしろ愛情が足りないんじゃないかと自分を責めているけど、でもそれは、本当は愛情の問題じゃない。社会保障の問題なんだ。それに気づかせてくれたのが、海外の介護者支援だったんですね。

 それで、日本でもこういう視点が知られてほしいと、雑誌の連載で細々と海外のケアラー支援を紹介するようになりました。そしたら2010年に日本ケアラー連盟が立ち上げられて、私はその翌年に理事に加わりました。ケアラー連盟とその活動については、連盟のHPを見ていただければと思います。

 最近とても嬉しいニュースがありました。ケアラー連盟からも3人の委員が参加した研究の成果として、作年3月に厚労省から「家族介護者支援マニュアル」が出されました。そのマニュアルの副題に、はっきりと介護者本人の人生の支援が謳われています。

 でも残念ながら、このマニュアルでも、まだ「家族介護者」のイメージの中に障害児者の親が含まれているとは言えません。「障害児者の親」という捉え方をされると、親による介護はどこか育児のイメージに取り込まれてしまって、子どもがいくつになっても当たり前のように受け止められてしまうのですが、親も「ケアラー」であると捉えてもらえれば、親もまた支援を必要とする一人の人であることが見えてくるのではないでしょうか。

 このシンポジウムの企画をケアラー連盟で提案した時に、理事仲間の東さんという人が、チラシに「私たちはふつうに老いることができない」というキャッチを考えてくださいました。これを見た時に、今日のこのシンポで言いたいことの、ズバリ、ど真ん中を、言葉にして目の前に差し出してもらった気がしました。 今日ここで私たちが3つの講演で語ったのは、このことに尽きるのだろうと思います。

 私が最後に親の立場で言いたいことも、一つです。私たち障害のある子をもつ親だって、ふつうに老いていきたい。私たちにもふつうに老い病むことを許してほしい。障害のある子どもの将来が心配で死ぬに死にきれないという思いを抱えて死んでいかざるを得ないのではなく、私たちだって、ふつうに、安んじて死んでいきたい。そんなふうに思います。

 ありがとうございました。

 

*なお、当日は薬師寺みちよ参議院議員が来られて最後までいてくださいました。そして、二日後5日の参議院予算委員会でケアラー支援について、ヤングケアラーと障害児者の親への支援について、丁寧な質問をしてくださいました。 総理大臣が「ケアラー」の定義を語り、ケアラー連盟の調査報告書のデータをもとに実態を説明するという、大きな一歩が刻まれました。 また、障害者の親や兄弟についても「自分自身の人生を生きられるように支援する」ことの必要を厚労大臣が明言。これを機に、障害児者の領域でも「家族支援」が従来の「療育機能や介護機能を支援する」というところから脱却していくことになれば、と願っています。

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