地域医療ジャーナル ISSN 2434-2874

地域医療ジャーナル

2019年10月号 vol.5(10)

世界の安楽死と医師幇助自殺の潮流 4

2021年06月27日 13:20 by spitzibara
2021年06月27日 13:20 by spitzibara

 8月31日(土)、広島市内で日本緩和医療学会第2回中国四国支部学術大会「つながりを大切に」(大会長 小原弘之)が開かれ、spitzibaraは部外者ながら、教育講演をされた神戸の緩和ケア医、新城拓也先生のお誘いをいただいて、ちょいと覗きに行ってきました。せっかく4000円も払ったのだから、いくつかのプログラムを聞かせてもらい、いずれもとても興味深かったのですが、思わず立ち上がって盛大な拍手を送りそうになった、その日一番の名言はやはり新城先生から出たものでした。

 患者は痛みに耐えているのではなく、痛みを訴えても聞く耳を持ってくれない医師に耐えているのです。

 私は拍手してしまいたい衝動を抑え、「そうだっ。その通りだっ」と心の中でガッツポーズ。隣の席で知人の看護師さん(この春まで大学教授)も「そう。患者は医師に耐えているのよ……」と小声でつぶやいていました。

「日本と世界を巡る鎮静と安楽死の現状」と題した教育講演で新城先生が話されたことの中心は、患者が主観的に感じる「耐え難い苦痛」と医師が医学的に考える「治療抵抗性の症状」とが一致していない場合に、医療サイドの見方で鎮静開始時期が判断されている現状では患者は無理やりに苦痛を耐えさせられている、患者の捉え方を重視して予防的鎮静を認めるべきではないか、という問題提起でした。

 いつも視点が患者サイドにも置かれている新城先生ならでは、と胸が熱くなりました。一方、先生が言われるように予防的鎮静が「患者が痛みではなく、実は聞く耳もたない医師に耐えている」現状を変えることができるのかについては、患者の立場から私にも思うところがいろいろあります。今回の新著『殺す親 殺させられる親 重い障害のある人の親の立場で考える尊厳死・意思決定・地域移行』(生活書院)に書いたように、日本の医療現場では「死ぬ/死なせる」議論以前に医師と患者の関係性そのものが捉えなおされない限り、状況の定義権を医師が握っている現状が変わることはなく、その限りにおいては予防的鎮静にも、患者がたまたま出会った医師の考え方によって「患者が痛みよりも(に加えて)医師に耐えざるを得ない」状況は変わらない、あるいは、それが「無益な治療」論による別形態の安楽死となっていくリスクもあるように思うからです。  

 それからもう一つ思うのは、新城先生の議論が臨死期の患者さんに限定したものであることは言うまでもなく、世界の「安楽死」「死ぬ権利」概念がそこをすでに踏み越えて広がってしまっている今、日本でも議論が「すべって」いかないためには、終末期医療の問題と「安楽死」や「死ぬ権利」一般の問題との間には明確な一線を引いておかなければならないのではないか、ということ。

 そんなことをグルグルと考えていた9月11日、まさにその問題に関係するニュースが3つ同時に入ってきました。世界の安楽死の今後の動向を占ううえでも重要と思われます。そこで今月は、「世界の安楽死と医師幇助自殺の潮流」シリーズ第4弾として、この3つのニュースについて。

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