地域医療ジャーナル ISSN 2434-2874

地域医療ジャーナル

2021年04月号 vol.7(4)

健やかな論理に基づいた不寛容さについて

2021年03月29日 09:55 by kangosyoku_no_ebm

 

かくて、 わたしは日常という砂漠に墜ちた。
公共性とリソース意識からなる、茫洋とした広がりに。
調和(ハーモニー)という名の蟻地獄に。 
 
 これはSF作家である伊藤計劃のハーモニー[1]という本の一節です。
 
 ハーモニーの世界では医療が高度に発展していて、人々の身体の中に「watch me」というものがインストールされており、異常がないかどうかが常に監視されています。
 
 そもそも人間の体にはホメオスタシスと呼ばれる一定の状態を維持しようという働きがありますが、それを更にサポートするものを生体内に組み込んでいるわけです。
 
 そして、健康のためにそこまでしているわけですから、喫煙や飲酒などの不健康な行動をとることも当然禁止されています。
 
 そんな風に病気になれない社会。不健康になるような行動はできない社会。
 
 「皆んなが健康であらねばならない」
 
 ハーモニーの世界はそんな空気に満ちた世界です。
 
 しかし、ここまで極端ではないにしても、現代社会にもこんな空気が漂っているように感じます。
 
 でも、そうして健康が得られたとして、人々は本当に自由であると言えるのでしょうか。
 
 そうやって得た健康は手放しに喜べるものなのでしょうか。
 
 本稿ではその考え方の仕組みと、その思考の基礎になっている自己責任論の限界、そしてそれを認識することの有用性について、私見をまとめてみたいと思います。
 
 
【現代社会に溢れる”健やかな論理”】
 
 ジョン・スチュアート・ミルは著作「自由論」の中でこう述べています。
 
「人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる」[2]
 
 つまり、「他人に害を及ぼさない限り自分の行動は自由である」ということです。
 
 しかし現状、「他人に実害・迷惑をかけなければ自由だ」は「他人に不快感を与えなければ自由だ」にまで引き伸ばされているようにも感じられます。
(というより「迷惑をかけなければ良い」の「迷惑」の意味するところ、迷惑の範囲が広くなってきているということなのかもしれません。どちらにせよ同じことですが)
 
 
 「自己責任論」が跋扈する現代社会はどんどん自分と他人を線引いて、責任の所在を明らかにします。
 
 「誰が」「やった側」で「誰が」「やられた側」なのかをどんどん明確にする社会であると言えます。
 
 勿論、それ自体は悪いことばかりではないでしょう。しかし、それを追求したことで互いにどんどん不寛容になり、そしてその結果どんどん息苦しくなっている。個人的にはそんな感覚も覚えます。
 
 それと関連した事柄について、熊代亨氏が著作「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」[3]の中で鋭い洞察をしています。
 
「この清潔な街は、清潔という習慣に馴染めるマジョリティには快適な自由を惜しげもなく提供する。けれども、清潔に馴染めないマイノリティには清潔であるよう強制し、それができなければ羞恥心や罪悪感を、時には排除や疎外さえ与えかねない。医療や福祉が発展している今日では、排除や疎外にかわってサポートが、時には治療が提供されることもあるけれども、逆に言うと、サポートや治療を受けてでも清潔な社会のなかへ再配置されなければならないということでもある。清潔であるか否か、不安感や威圧感を与えてしまうか否かがさまざまな場面で問われるこの社会から降りるという選択肢はない」
 
「個人のプライベートな生活を守りあいながら、安全・安心な生活を維持するために、私たちが支払っている代償は決して小さくない。清潔でいるため・挙動不審と思われないため・臭いや行動で他人に迷惑をかけないための通念や習慣にすっかり馴らされた私たちは、個人それぞれが自己主張する社会とは異なった、日本独特の功利主義的状況をお互いに強いている」
 
 こんな風に日本は、特に東京などの都市部はどんどん健康的になり、清潔になり、道徳的で秩序ある社会になってきている。熊代氏はそんな風に述べています。
 
 しかし、どんどん健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会になっていくにつれ、どんどん他者に不寛容になっているのではないでしょうか?そして不寛容が自己責任論を加速させ、その結果スティグマを強める。そしてそうやって強まったスティグマもまた自己責任論を加速させ、不寛容を強める。そんな側面があるのではないでしょうか。
 
 
 それは「他人の不健康にも不寛容になる」ということでもあります。
 
 
 あなたはあなた一人だけの身体ではない。あなたの健康は他者の健康にも繋がっている。
 あなたにかかる医療費は皆で負担している。
 あなたが感染対策を怠ったら皆に被害が出る。
 
「各人が公共体であり、一人一人の行動が全体に影響する。だから一人ひとりが健康であるべきだ」
 
 だからこそ、あなたは健康であらねばならない。
 
 冒頭のハーモニーの世界で描かれているような、そんな健やかな論理が現代社会には溢れているように感じるのです。
 
 
 どれだけ所謂不摂生な生活をしていても病気にならない人もいますしその逆もいます。
 
 健康的な生活をしていたにせよ、不健康な生活していたにせよ、その原因に関わらず病気になった人の生活を支援するのが医療従事者の役割でしょう。
 
 少なくとも「生活保護で不摂生な生活をしている患者の治療はしない」というような姿勢には大きな問題があります。
 
 ただ、医療費のこと、介護のことなどを考えると、予防できるよう尽力するという医療従事者の取り組みが間違っているわけでは決してないでしょう。
 
 しかし、LGBTなど様々な側面で多様性が重んじられている現代において、健康は画一的で多様性がほとんど認められていません。そのことによって生じ得るスティグマなどについて、現状十分に考えられていると言えるのでしょうか。
 
 各人がリソースであり、公共体であるから和を乱さぬよう健康に気をつける。それぞれが他人の不健康に不寛容だから更に健康を追求せざるを得ない。そんな風に様々な要素が健康をドライブしていく。
 
 でも、その結果健康にはなっても、本当に幸せになっているのでしょうか。
 
【参考文献】
[1]伊藤計劃. ハーモニー p79 2018.
[2]ジョン・スチュアート・ミル 自由論 (光文社古典新訳文庫) 2012.
[3]熊代亨. 健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて 2020.
 
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