今回から3回に分けて女性のがん闘病記をご紹介します。第1回は千葉敦子さんです。
千葉敦子(1940-1987)
1940年 中国上海生まれ。1964年 東京新聞に入社、経済部記者となる。1967年 ニーマン基金を得て、ハーバード大学大学院に留学。1975年頃からフリーランスジャーナリストとして活動。1981年 乳がん手術と乳房再建手術を東京都駒込病院で受ける。1983年 がんが鎖骨上に再発、放射線治療を受ける。ニューヨークに移住。1984年 がん再々発。1986年 3度目のがん再発。1987年7月9日 入院先のスローン・ケタリング記念病院にて死去。
このたび参考にした著作
『乳ガンなんかに敗けられない』文藝春秋 1981、のち文春文庫
『わたしの乳房再建』朝日新聞社 1982、のち文春文庫
『ニューヨークでがんと生きる』朝日新聞社 1986年 のち朝日文庫、文春文庫
『よく死ぬことは、よく生きることだ』文藝春秋 1987 のち文春文庫
『「死への準備」日記』朝日新聞社 1987 のち朝日文庫、文春文庫
『昨日と違う今日を生きる』角川文庫 1988
はじめに
千葉敦子さんを知ったのは、1987年初夏頃の朝日新聞の連載だったかと思う。ニューヨークの自宅や街角を背景にした千葉さんの写真が載っていた。末期のがん患者さんにはとても見えない、輝くような笑顔に魅せられた。千葉さんの闘病記を読んだのは、2回の入院(1992年の急性肝炎、1995年の乳がん)のとき、患者図書室司書をしていたとき、そして、この原稿を書いている今である。30年を通して読み返しても、まったく色あせない千葉さんの印象、私の驚嘆と敬愛の気持は以下の詩に見事に表現されている。
人生に求めたものは (『死への準備日記』より)千葉敦子
新聞記者になりたいと思った
新聞記者になった
経済記事を日本語で書いた
経済記事を英語で書いた
ニュースを書いた
コラムを書いた世界を旅したいと思った
世界を旅した
プラハで恋をした
パリで恋を失った
リスボンでファドを聞いた
カルグリで金鉱の中を歩いた本を書きたいと思った
本を書いた
若い女性のために書いた
病んでいる人のために書いた
笑いながら書いた
歯をくいしばって書いたニューヨークに住みたいと思った
ニューヨークに住んだ
毎晩劇場に通った
毎日曜日祭りを見て歩いた
作家や演出家や画家に会った
明白な説明を受けて癌と闘った私が人生に求めたものは
みな得られたのだ
いつこの世を去ろうとも
悔いはひとつもない
ひとつも
1. 自分のがんを取材する
千葉さんは、1975年にフリーランスジャーナリストになったときにこの世に生きる価値を明確に見出したと述べている。それから6年後の1981年にがんが発見されたとき、彼女は次のように考えた。
若くて病気と対決する力もあり、報道する能力のある自分が、がん患者になったことは、ジャーナリストとして願ってもない状況だった。私は終始、自分の行動や心理状態を「取材する側」からながめようと努力した。極めて挑戦的な、スリルに満ちたプロジェクトであった。私は入院中もずっとこうして仕事を続けた。
私個人の体験を素材として問題提起を図る。客観的な報道ではなく、主観的な色彩の濃い、観察、意見、希望、批判を含む報告を行う。再発したとしても、ぎりぎりまでジャーナリストでありたい。動けなくなくなるまでは、できる限り自由な日々を送りたい。
1987年7月、脳への転移という告知を受けた。死の2日前に、連載している雑誌の担当者に「書けません。申し訳ありません」と詫びた。仕事をする人間としての姿勢を見事に貫いた。
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