地域医療ジャーナル ISSN 2434-2874

地域医療ジャーナル

2017年2月号 vol.3(2)

「無益な治療」論とDNAR指示

2017年01月25日 20:01 by spitzibara

 私がこの10年ほどブログで追いかけてきたテーマの中に、海外の「死ぬ権利」をめぐる議論と「無益な治療」論の2つがあります。

 ご存知のように、前者は「患者の自己決定権」という概念を論拠に「いつどのような死に方をするかは自分で決める権利がある」と主張し、安楽死や医師による自殺幇助を権利と捉えて、それを保障するための合法化を求める議論。もう一つの「無益な治療」論とは、高度な専門性を根拠に、患者にとって無益と判断した治療を施す義務は医師にはない、とする生命倫理学上の合意を基盤とした議論です。

 死を敗北と捉える医療の文化によって患者が過剰医療で苦しい死に方を強いられてきたことへの反省が発端と考えると、同根の議論のようにも思えます。が、英語圏のバイオエシックスにおける「無益な治療」論は、重い障害のある新生児への蘇生や救命治療をめぐる倫理問題にも出自がある、ということは念頭においておくべきでしょう。終末期の過剰医療への反省であれば指標は「救命可能性」にフォーカスされますが、重い障害のある新生児への救命判断としての「無益な治療」論には「QOL」という別の(恣意的でもありうる)指標が紛れ込んでくる余地があります。このあたりの議論については、2014年に共訳で出したアリシア・ウーレット著『生命倫理学と障害学の対話 -障害者を排除しない生命倫理へ』の第3章に詳しいので、よかったら読んでみてください。

 また、この本では、「無益な治療」をめぐる議論の論点とは、本質的には「誰に決定権があるか」という対立であること、言い換えれば「医療専門職のインテグリティ」をめぐる論争であることも指摘されています。実際、最小意識状態の患者からの生命維持中止をめぐって争われたカナダの「無益な治療」訴訟でも、医師側から「生命維持中止に患者や家族の同意が必要だなんて言っていたら、医師は責任ある医療はできない。仮にそれが患者の望みに反していたとしても、患者の最善の利益を判断するのは医師の責任である」という反論が出ていました。医師らはまさしく医療専門職のインテグリティを守るために提訴しているわけです。

 米国では最もラディカルな「テキサス事前指示法(TADA)」をはじめ、一定の手続きを定めた上で医師の無益性判断による一方的な治療停止を認める法整備をする州が増えてきていますが、ウーレットが指摘しているようにTADAでは「無益性」は定義されていません。無益性の定義も含め、その判断は医療専門職の専門性に全面的に委ねられているのです。つまり「無益な治療」判断による一方的な治療中止や差し控えの法制化そのものが、医師のインテグリティを担保するものと言えるのかもしれません。

 こんなふうに、「死ぬ権利」と「無益な治療」という2つの議論は、決定権がどちらにあるかという観点からは対極的な議論でもあります。なので、英語圏の議論を追いかけ始めた頃に私が漠然と感じていた疑問は、この2つが同時進行していることの不思議でした。

 決定権というところでは両者は両立するはずがないのに? 両者が両立するのは、ただ意思決定が「死ぬ/死なせる」という一方向に向かう場合のみのはずなのに? それって、患者や家族が「にもかかわらず生きる/生きていて欲しい」と「自己決定」しようとした時に、医師が「この人のQOLは低すぎて治療に値しないから生命維持は無益」と判断したなら、一方的に差し控えや中止の対象となるということ(北米で頻発している「無益な治療」訴訟や係争事件は、まさにこの構図です)なんだけど……。でも、そうだとしたら、「患者の自己決定権」は「死ぬ」という一方向にのみ尊重されるということにならないんだろうか。そんなのが、そもそも「権利」と言えるんだろうか――?

 その後、2つの議論の周辺で起こっている事件や論争について素人なりに追いかけるうち、この2つは結局のところ「死ぬ/死なせる」という1枚のコインの表裏として、相互に作用しあっているのではないか、と感じるようになりました。両者の間で、その相互作用として、一般社会でも医療現場でも、様々な「すべり坂」現象が加速化しているように私には見えたからです。

 それらの現象については、2014年に仕事上の必要から整理してみたことがあります。今の私の感覚で少し手直しした項目が以下です。それぞれの項目を解説した内容はこちらの拙ブログエントリーで読めます。

(1)対象者像の拡大(「救命可能性」から「QOL」への指標の変質)

(2)「死なせること」の緩和ケアの一環としての位置づけ

(3)障害のある生は生きるに値しないという価値観の広がり

(4)医療判断が個別検討から年齢や障害像による包括的な一律判断へ

(5)介護者による自殺幇助の容認

(6)Omissionとcommissionの区別の否定

(7)POLST、「自己決定」の強要

(8)ホスピタリストなど効率の制度化に潜む選別と誘導

(9)(医療現場における)高齢者差別、障害者差別の助長

(10)不況と社会保障の削減という背景

(11)社会の荒廃

 POLSTについてはCMJの読者には存知の方が多いと思いますが、この記事の趣旨からは大事な点なので、私が当時某所への報告書に書いたPOLSTについての解説を多少修正して追記しておくと、

 現在、米国の医療で新たにPOLST(Physician Orders for Life Sustaining Treatment:生命維持治療に関する医師の指示書)の法制化が進みつつある。いくら啓発しても事前指示書を書く人が増えないことから、その対応策として編み出されたものと思われ、患者の終末期の意思の尊重のために、医師の主導で終末期医療について話し合いをし、医師が聞きとった患者の意思を医師の指示書という形で1枚の様式に記録しておくもの。2013年6月段階で法制化しているのは20州。ただし、2013年にPASを合法化したばかりのバーモント州を含むいくつかの州の法律では、仮に患者が万一の場合の心肺蘇生を希望しているとしても、医師が「無益」と判断する場合には、患者や代理決定権者の同意なしにPOLSTに「蘇生不要(DNR)」指定を記入することが認められており、様式にも「同意なし」のチェック項目が設けられている。

 日本でもPOLST導入に向けた動きもあるが、それ以前に、特に名称もなく法的な裏づけもないまま、施設入所の際や病院への入院の際に、万が一の場合に考えうる救命処置などについて、実施の希望の有無を確認し文書化することが多くの現場ですでに慣行化している。 しかし入所や入院の段階で、自分がどのような状態や状況でそういう事態に直面するかを具体的に想像することは困難であり、また終末期の医療をめぐる判断も患者の意思決定も、実際にそういう状況になった際の、あるいは実際にそういう事態が想定される中での、固有の症状と固有の状況の中で個別具体の検討でしかありえないもののはずである。

 また日本では、それらの文書には法的な根拠はないが、入院入所に際して目の前に出される患者や家族の立場では、法的根拠のある様式であるように見えてしまうし、記入しなければ受け入れてもらえないかのような圧力を感じながら記入することにもなる。そんなふうに漠然とした「緊急時」「終末期」の想定で深く考えず、単なる事務手続きの一部として記入した文書の内容が、現実にその事態が起こった際には「患者の自己決定」「家族の意向」として「尊重」されるのだとしたら、いかにも乱暴な話であり、自己決定の不当な強要ではないだろうか。

 このように、日本でも実は同様のことが、見えにくい形をとりながら進行しているのではないか、という強い懸念がずいぶん以前から私にはありました。

 その後さまざまな情報を拾って考えるうち、最近では、もともと「患者の自己決定権」という概念が十分に根付いていない日本では、「尊厳死」とは、実態としては医師の決定権による「無益な治療」論ではないのか、という疑問を持つに至りました。日本では多くの方が「尊厳死」を海外の安楽死や自殺幇助の流れに位置づけて考えておられますが、むしろ日本の尊厳死は「無益な治療」論の文脈で捉えるべきなのでないか、と考えるようになったわけです。

 その疑問と懸念について、昨年、『現代思想』2016年10月号(相模原障害者殺傷事件特集)の「事件が『ついに』起こる前に『すでに』起こっていたこと」で、海外の実態とともに書いてみました。そこで私が言わんとしたことを、CMJ編集長のbycometさんが昨年12月16日に、この上ない的確さでブログ記事に取りまとめてくださいました。まずはそちらを読んでいただければ、私の言いたいことをご理解いただけると思います。

 できればbycometさんのブログ記事を読んでいただいた上で、記事後半にお進みください。

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