地域医療ジャーナル ISSN 2434-2874

地域医療ジャーナル

2019年01月号 vol.5(1)

社会的環境が人の健康状態を決定する―社会疫学のススメ

2018年12月23日 11:59 by syuichiao
2018年12月23日 11:59 by syuichiao

 【表1】は 《ある事故》 における生存者の割合を示したものです。どんな事故だったか分かりますでしょうか? どういった人で生存割合が高かったのかを見てみるとなんとなく想像がつくかもしれません。例えば、女性では、男性に比べて生存割合が高いことが示されています。成人と小児を比較すると、小児で生存割合が高いことも示されています。さらに経済状況を見てみると、貧困層よりも富裕層で生存割合が高いことが分かります。

 経済的に裕福な子供や女性の生存割合が高い状況――それはどんな事故だったのでしょう。

【表1】 《ある事故》 における生存者の割合

(引用文献1より筆者作成)

 【表1】が示しているのは、1912年に発生した豪華客船、タイタニック号沈没事故における生存者の割合です【1】。ジェームズ・キャメロン監督による1997年の映画、「タイタニック」をご覧になった方もおられることでしょう。史上最大の豪華客船といわれたタイタニック号は、イギリス・サウサンプトン港からニューヨークへ向かう途中、北大西洋上で巨大な氷山に激突し沈没しました。タイタニック号は当時の最新技術を用いて造船されており、沈むことはありえない、という想定のもと、規定より大幅に少ない数の救命ボートしかなかったそうです。そのため、事故発生により乗員乗客の避難は混乱を極めていきました。

 退避による混乱の中でも【表1】から推察されるのは、男性よりも女性や子供を優先的に退避させるという社会・文化的背景、そして、経済状態が高い人ほど、優先的に避難できるチャンスを獲得できたという経済格差による影響も示されています。人の生存が社会的要因に大きな影響を受けた端的な例といえるかもしれません。

 先月号の『医療・健康問題の意思決定における限定合理性について』でも触れましたが、人間の判断は必ずしも合理的なものではなく、そこには系統的なバイアスが存在します。近年、健康と疾病の分布においても、一定の社会環境のパターンに沿った傾向性が認められることが明らかになってきました。

 健康格差や健康状態の改善には医療が重要だと思われることも多いですが、健康問題に医療そのものが寄与している割合は、私たちが想像しているよりも小さい可能性があります【2】。例えば、すべての米国人に良質な医療が無償で提供されたとしても、早期死亡を減らすことができるのは10%にすぎません【3】。医療がもたらす健康への影響よりも、患者の健康関連行動や社会的環境が占める割合の方が大きいのです【表2】。

【表2】健康の決定要因と早期死亡への寄与割合

 (引用文献3より筆者作成)

 健康の社会的決定要因(Social determinants of health:SDH)のひとつとして注目を集めているのが、ソーシャル・キャピタル(social capital)と呼ばれる概念です。ソーシャル・キャピタルを直訳すると、社会資本となりますが、インフラを意味する「社会資本」とは異なります。どちらかといえば、社会関係資本というような意味合いに近いといえますが、社会・地域における人々の信頼関係や結びつき、つまり社会的つながりを示す概念のことです。

 社会的つながりが健康に良い影響をもたらすことは複数の研究で示されています。Holt-Lunstad Jらによる2010年のメタ分析【4】では、社会的つながりを有することによる死亡リスク低下効果は、喫煙者が禁煙をすることによる死亡リスク低下効果に匹敵することが示されています。また、Uphoff EPらによる2013年のシステマティックレビュー【5】では、社会的つながりが社会経済的地位の低い集団に対して、健康に良い影響をもたらす可能性が示唆されています。

 これまで健康問題は生物・医学を基盤としたモデル(biomedical mode)で捉えられることが多かったかもしれません。確かに人間を生物としてとらえ、健康について、その生物学的な側面から説明することで医学は大きく進歩しました。しかし、それは人の健康状態の一面をとらえているに過ぎません。冒頭述べたように、健康には様々な社会的要因が影響していることが明らかになってきており、今や生物・医学モデルでなく生物・心理・社会モデル(biopsychosocial model)に拡張して考えていく必要があります。そして、社会構造により生み出された格差とその分布が、健康と疾病の分布をどのように決定していくのか、健康状態の社会分布と社会的決定要因を探求する疫学の一分野を社会疫学と呼びます【6】。

 筆者自身は社会疫学の専門家ではありません。しかしながら、これまで数多くの臨床医学論文を読む中で、社会疫学に関する研究論文にも少なからず目を通し、筆者なりに考察を重ねてきました。今回は、社会疫学分野におけるいくつかの代表的な探究領域関して、最近の研究動向とその展望についてご紹介したいと思います。

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